台湾の映画

台湾映画「多桑」にみる日本統治時代とその後の台湾

投稿日:11月 5, 2017 更新日:

台湾映画「多桑」は吴念真が1994年に監督した処女作です。吴念真は脚本家であって、侯孝賢監督の「非情都市」や「恋恋風塵」の脚本で知られています。今回は侯孝賢が製作を担当し、吴念真が自分の脚本を自ら監督した意欲作と言えます。吴念真は「恋恋風塵」では自分の青春時代を脚本にしましたが、「多桑」(duosan:父さんと同じ発音の当て字)」では自らの父を語る形で台湾の過去と現在を描いています。

簡単なストーリは次の通りです。
多桑(父さん)は暴風雨の荒れ狂う夜に病院で死にました。まだ62歳の早い死です。多桑は一生を鉱山で働き肺を痛めました。仕事仲間は同じ病気で次々と亡くなっていきます。
多桑は日本の統治時代に生まれ育ち、国民党政府を認めることはありませんでした。そして日本に行って富士山と皇居を見ることが障害の夢でした。やっとの思いで念願の日本行きの手続きが済んで、4日後に出発という時に病気が悪化して病院に担ぎ込まれることになってしまいます。
金鉱山の仕事は男気のある多桑には相性が良かったようで、給料が出れば金を持って山を下り酒場で飲んでいました。妻が監視役に息子の文健を連れて行かせることもありますが、日本の映画を見せている間に息子を残して映画館を抜け出し、酒場で女給や仲間と酒を飲み騒いでいるのでした。文健は少し気取ったところがあって女性にもてた父が少なからず自慢でもありました。
やがて金鉱山も最盛期を過ぎ衰退の時期となりました。仲間は次々と山を去っていきます。文健は街に出て、アルバイトをしながら夜間の大学に通います。妻と喧嘩することが多くなった多桑さんは、或る夜街まで下りて来て文健を訪ねます。そしてついに金鉱山が閉山になったこと、他の仕事ができないので炭坑夫になったことを告げます。
幾年かが過ぎ、子供たちは皆結婚し街に住んでいます。孫に囲まれても多桑は幸福ではありませんでした。職業病の発作がひどくなり、同じ症状の古い仕事仲間が次々と亡くなっていくのをただ見ているしかできなかったからでした。咳がだんだん大きくなり、声が細っていきました。そして命自体も細くなってきていることを多桑には分かっていました。(一部中国版维基百科参照)

1994年の夏、由吴念による初めて映画「多桑」は、父の日の劇場に投入されました。台湾での正式な上映は8月6日です。この映画は息子の目を通した父の人生の伝記を表したものです。小さい時から大きくなるまで吴念真は父親のことを「多桑」と呼んでいました。父親は日本統治時代(1895-1945)に生まれ、台湾語と日本語しか話せず、人にはいつも「私は昭和4年生まれだ」と言っていました。この映画は台湾の戒厳令が解除され、当局の締め付けが緩まってきた後にようやく世に出た作品です。国民党政府が日本に代わって台湾を統治してからの50年後、観客は初めてスクリーンのうえで日本統治を懐かしむ一人の年老いた台湾人を見ることになったのです。

日本統治時代に最初の16年を過ごした多桑(とうさん)は、嘉義県の民雄郷で育ちました。少年の時に意地を張って家を出ました。そして嘉義市の漢方薬店に弟子入りしました。1945年10月国民政府が台湾を接收しました。1947年に二二八事件が起こります。嘉義駅の前に台湾のエリートとされる人々が何ら裁判を受けることもなく国民党政府軍により公開銃殺されました。その中に多桑が日ごろ尊敬する潘木枝医師(1902-1947)が含まれていました。義侠心のある多桑は線香と冥紙を買ってきて店の前に立って弔いをしました。驚いた店の主人はあわてて店を閉じ、災いを恐れて彼を店から追い払いました。二二八事件が原因で多桑は故郷を離れ、身をかわすために台湾の北へと逃れた結果、瑞芳鉱山で結婚して子を設けることになります。

多桑はラジオをつけて日本の放送を聞きます。日本製のものはなんでもひい気にします。よくしてくれた日本人教師を忘れることはありません。晩年の最大の望みは日本に行って、その先生を探すことと、富士山と皇居を見ることでした。このような多桑と、戦後に生まれ中華民国政府の下で教育を受けて成長した子供たちとはとても同じ国に育った者同士とは言えません。

吴念真が小学校に上がるとき多桑は彼の手を取って名前の書き方を教えます。日本語の発音で名前を読みます。子供は国語(北京語)で正確に発音してと頼みます。多桑は「”あいうえお”は読めるが、北京語の発音記号なんか読めるか」と言います。

或る時、妹が学校から国旗に色を付ける宿題を貰ってきました多桑は自分で手伝おうとします。しかし「青天白日」をクレヨンで赤く塗ってしまいます。女の子はめちゃくちゃにされた宿題を手に持って泣き止みません。多桑は怒って台湾語で言います「お日さんは赤色でなくて何だっていうんだ。お前は日本の国旗を見たことがないのか。」娘も怒って国語(北京語)で叫びます{売国奴!汪精衛!」

中華民国の国旗は左上に青地に白い太陽が描かれています。青は空を、12本の光芒からなる白日(白い太陽)は1年の12か月とを表し、中華民国の絶え間ない進歩を象徴していて「青天白日」と呼ばれています。多桑はそれを日の丸のように赤く塗ってしまったわけです。娘は「汪精衛!」と叫びますが、汪精衛は中国では一般的な呼び方ですが日本では汪兆名と呼んでいます。汪兆名は蒋介石とはもともとは国民党での同士ですが、独裁色を強める蒋介石は日本との和平を模索する汪兆名を売国奴と位置づけ暗殺をしようとたことがあります。その時受けた傷がもとでのちに汪兆銘は日本で客死します。娘が思わず汪兆銘の名を口にしたことは、台湾での学校で如何に蒋介石率いる国民党に沿った歴史観が教え込まれているかを表しているものといえます。

街でアルバイトをして夜学に通う吴念真を訪ねてきた多桑は、吴念真が英語の勉強のためだと言い訳するPlay Boy誌を見つけた多桑は中を見ながら、「金髪女はでかすぎてよくない、やはり女は日本の女に限る」と言います。このように多桑は何かにつけて日本統治時代を懐かしんで日本のものがいいと言います。しかし、日本統治時代がどういう時代でどんな政治・経済・文化だったのかを息子の吴念真に語ることはなかったといいます。それは多桑に限った話ではなく、当時国民党政府が敷く戒厳令下で厳しい言論統制が行われ、白色テロが吹き荒れる中で、日本統治時代や二二八事件を語ることは命取りになる可能性がありましたので、誰も口にすることはありませんでした。日本統治時代の50年間と国民党政府による戒厳令下の40数年の約100年の長い時間の間に台湾で何があったのか、学校で正しい歴史を学ぶこともなく、家庭で話題にすることも避けなければならなかったのでした。100年間の記憶を喪失した民族という表現が正しいのかどうか分かりませんが、そんな気がしてなりません。

多桑は二二八事件で尊敬する人の処刑を目の当たりにしたあと生涯国民党を認めることはありませんでした。国民党の統制下にあっては息をひそめて生きるしかありません。日本統治時代の全てがよかったわけではないでしょうが、昔を美化する傾向は誰にでもあることとはいえ、日本を賛美することが、国民党政権への批判になっていたといえます。



日本統治と国民党統治の違いは?

台湾の作家で評論家の管仁健氏は日本統治と国民統治の違いはその総督と総統とを比べれば明らかになると指摘して次のように述べています

「70年に入りアメリカはベトナム戦争のの泥沼から撤退を決意し、中国との関係正常化を始めました。1971年に中国の代表はどちらかの問題は決着を見て台湾は国連を脱退しました。その年には12か国が国交を絶ち、翌年には27国に増えましたが、その中で最も衝撃的だったのは日本が国交を断絶したことです。

蒋介石は日本との断交はまだ先のことと考えていましたが、日本が性急に断交後の関係について交渉すべく特使を送ってきたことに怒り、戒厳令で20年間もデモを禁止してきたにもかかわらず、学生、民衆にデモを起こさせました。

蒋介石は全面的な抗日に踏み切りました。国軍を動員して、国民党が経営する映画会社に巨額の投資をして多くの戦争映画を製作しました。

蒋介石は民衆が映画の券を買うのを惜しむことを心配し、テレビで繰り返し記録映画で日本がいかに中国を侵略したかを放映しただけではなく、南京虐殺の残忍な写真、子供を傷つける写真、斬首写真、女性が下半身を露出して命乞いをする写真、生き埋めなどの写真を無修正のままで小学校の教科書に載せたのでした。

蒋介石は中華民国が代表権を失ったことに民衆が疑いを持たないように危機感を煽る方法に転じたのです。愛国主義教育をするなかで民衆に不満と怒りのはけ口を与えるために日本という敵国をつくりあげたのです。長年に亘る戒厳令にあえぐ民衆の苦悩を日本を罵倒することで発散させようとしました。

しかしその事が却って日本統治時代の日本総督と中国総統との違いを浮き上がらせてしまいました。

日本人は最初に台湾に来たとき台湾総督の指示で熱心に台湾語を学習し、10年後には日本人人口約6万人のうち11%が台湾語を理解し、特に警察と教師が熱心に学習したのでした。まずは、日本人による統治に馴れてもらい、徐々に日本化を推進するというのが日本総督の方針でした。

翻って戦後に中国から来た国民党政府の警察は台湾語を全く理解せず、蒋介石は台湾語の学習を彼らに奨励しないばかりか、台湾語自体を禁止しました。テレビ放送からも排除して台湾から台湾語を消滅させたのです。私たちの世代の人たちは共通の経験をしています。それは学校で台湾語を話すと罰金を取られるということです。更に教室には「私は方言を話しません」と書かれていました。本省人の子供は台湾語しか話せない両親を恥じようになりました。

蒋介石は家では家族と故郷の寧波語を話し、自分の干支の辰年には紹興劇を放送させました。これら台湾語や台湾劇よりも高級だともいうのでしょうか?

日本は統治時代にの「皇民奉公」教育は、戦後二つの中国政府から「奴隷化」教育だと誹謗されました。しかし「奉公」については本来漢民族に欠乏している美徳でもあります。蒋介石は戦後来てあらゆるものを破壊しました。「皇民化」を排除するついでに「奉公」的な行動も一緒に抹消してしまいました。戦後台湾人は毎朝道路を清掃し、樹に水をやり、自転車には鍵もつけていませんでした。しかし、蒋介石の官吏には「愚民」とみられました。中国から来た教員は教室で公然と煙草を吸い、痰を吐いて鼻をかみ台湾の学生が咄嗟に身をかわすということがよくありました。

日本統治時代、歴代の総督は教育のために特務を利用することはしませんでした。。蒋介石とその息子でのちに総統になった蒋経国子は、台湾人が日本から受けた教育は「奴隷化教育」だと非難しましたが、学校に特務機関の者を配置し教員を監視しました。甚だしい時は軍服を着た教官が軍から派遣されてきました。彼らは一緒に逃げてきたはずの外省人ですら人として扱わなかったのです。一体誰が「奴隷化」をしているか、それを知らない台湾人はいませんでし。

第7代総督明石元二郎は一生、公務を重んじて清廉で、台湾の最高権力者でありながら、無欲で淡々としており東京の自宅が痛んで雨漏りがしていても公費を使って修理をすることはしませんでした。台湾電力の株価が急騰した時に株を買うよう勧められた時でも手を出すことはなかった。これらの方向精神は武士の本質であり、台湾人の血税で豪邸を建てたりはせず、家族で粗末な家に住んでいました。

一方、蒋介石は台湾の名勝地を独り占めして、公金によって私人の「行館」を建設して、台湾中の資源は全て彼の一一族の私有財産としました。戒厳令下の40年の血塗られた統治は台湾人に皇民化的な奉仕を総統にさせることでつらぬかれていました。法の執行者は法を弄び、それに対して庶民はわいろを贈ることを習慣とするようになりました。一世代前の台湾人は二つの全く相違する体験をすることになります。すなわち清廉な日本総督による統治と、汚職にまみれた中国総統の統治です。

1919年東京での演習に参加した明石総督は船上で病となり、故郷の福岡で治療の甲斐なく帰らぬ人となりました。しかし、生前の「自分が死んだら必ず台北に埋葬してほしい」という遺言の通り台湾に遺骨がもたらされ、三板橋霊園に埋葬されました。

歴史的に台湾は常に外来の政権でしたが、統制官で台湾在任中に台湾で死去したものは少ないといえます。オランダのソンク提督、明国の鄧親子、そして日本の明石総督ぐらいです。彼らは皆台湾の地に埋葬されました。唯一台湾人にとって理解できないのは、今日桃園の大渓と頭寮にある両蒋総統の「陵寝」です。未だに「重兵戒護」で、陵寝の中では棺が支持材で宙につるされています。台湾の土に触れたくなく、いつか中国大陸の故郷に戻って埋葬されることを望んでいるからです。欧州、南明、東洋の3政権に比べて「植民」の心を隠そうともしていません。

私が小学生のとき、よく暗誦の宿題にでた二つスローガンがあました。「活発なよい学生になって、正々堂々とした中国人になる」というものです。しかし、生活の経験は私にこう教えました、正々堂々とした中国人は蒋介石親子にことごとく銃殺された。たとえ中国人的な台湾人ができたとしても蒋介石親子にとっては依然奴隷にしかすぎないであろう。せいぜい奴隷根性を止めることぐらいだ。

私はこう問わざるをません。

台湾の日本総督は警察官に台湾語を奨励した。中国総統は?

台湾の日本総督は清廉を貫いた。中国総統は?

台湾の日本総督は死後台湾に埋葬された。中国総統は?

日本総督と中国総統。一体どちらが奴隷教育をしたのか?」

http://mypaper.pchome.com.tw/kuan0416/post/1281895809

管仁健氏は1963年台北市生まれですが、父親は山東省から1949年に大陸から台湾に渡ってきました。蒋介石一緒に来たわけです。そして日本統治時代に生まれ育った本省人の女性と結婚して管氏が出生しました。戦後中国大陸から渡ってきた中華民国国籍の男性とその子孫は外省人ということになりますので管氏は外省人になります。

外省人である管氏の父親は吴念真の「多桑」とは違い、日本の歌や料理など日本のものを生涯に亘り嫌い続けたそうです。母親は日本統治時代の政府による差別を嫌悪していましたが、日本の歌や料理が好きで、母親が唄う日本の歌や母親が作る親子丼は管氏の少年時代の懐かしい思い出になっていると述懐しています。

外省人と本省人とを両親に持っているがための両方からの台湾をみる視点と自らの実体験とを土台にして詳細な歴史的検証をしたうえで、管氏は日本統治と国民党統治の比較分析をしています。それは、過去の空白を観的かつ客観的にとらえなおして、現在の位置づけを明らかにしたうえで、これからの進むべき方向について模索する姿勢と思われます。



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