中国の歴史

南京城門に戦争の痕跡を探す

投稿日:9月 18, 2017 更新日:

南京大虐殺記念館を出た後、私は案内をお願いした張さんとタクシーを拾い南京城の城壁を見に行くことにしました。

タクシーの中から南京城壁をみる

 

日本軍による南京陥落の時に城壁の上で万歳をする姿や司令官を先頭に凱旋入門する姿を映した写真は多くの文献や写真集で幾度となく見ており、一度自分の目で確認したいと思っていたもののひとつでした。

城壁の中と外は別の世界

南京城は明の初代皇帝朱元璋によって14世紀に作られたもので、城壁の長さは35kmにおよび中国最大級の規模をもつ城壁です。外敵から守るために構築された強固な城壁の中で住民は安心して暮らすことができ経済も発展しました。一方で農民は城壁の外に住居して田畑を耕し、作物を城内に持ち込んで市場で売りました。他の地域のものが攻めて来るときは、農民を場外に出し、城門を閉じ城内に立て籠もります。ひとたび城門が打ち破れて敵兵がなだれ込めば皆殺しの運命が待っています。城内の人々は運命共同体となって団結して戦うしかないのでした。

それでは場外の農民はどうなるのかと心配になりますが、攻めて来る軍勢も農民には手を出しません。ひたすら城壁を乗り越えて城内に侵入することを目指します。農民を殺しては、勝利して今度はその城市を統治する立場になった時に食料調達が困難になるからです。

この理屈は日本の戦国時代でも同じことです。百姓が巻き込まれないように武将も考えていくさをしているのです。天下分け目の関ヶ原の決戦もできるだけ農耕地の少ない地域を選んだ結果合戦場として関が原が選ばれた言われています。

日本の場合は城壁の中には城があり武士とその家族、使用人しかいませんが、中国の場合は城壁そのものが城であり、それを中から守るのですが、城壁の内側には普通に市民生活をする大勢の住人がいます。それら運命共同体とでもいうべき城内の人たちと運命を共にしない城外の農民たちとの間では当然なこととして意識の間に壁があったと考えられます。

城内の人つまり都市住人と農村住民との間には明らかに身分の差が生じていたのではないかと思えます。これは共産党が統治する国家となった現在おいても連綿と引き継がれており、保険制度、年金制度、子供を学校に入学させる条件など人生設計に関わるあらゆる重要なところで都市籍と農民籍に差が設けられている遠因だと考えられます。もちろん都市籍が優先的であり、かつ優遇されているのです。これは明らかに身分制度です。

GDP世界第2位を誇り、テレビには豊かで優雅な生活ぶりが映し出されますが、それは都市だけの話であり、圧倒的な比率を占める農村は繁栄から取り残されて相変わらず貧しい生活を強いられています。日本いるとあまり感じませんが、日本は実に平等な国家だと思ってしまいます。

中華門に入る

南の城壁の長さはちょうど東京の山手線と同じ長さですので、山手線の線路が城壁となって山手線内の住宅と住民をぐるりと囲んで守っていると考えるとイメージが湧きやすいかもしれません。南京城には11の城門がありましたがそのうちで最大なのがこの中華門です。

中華門は一番南に位置する城門で、山手線に例えると五反田駅当たりに相当します。入城式が行われた中山門は東京駅、中国軍の唯一の脱出口で長江へつながる挹江門はさしあたり池袋駅になります。

現在の中華西門

 

現存する中華門は長さが128メートルで奥行きが129メートルもあります。4つの城門と27の蔵兵洞(兵士が隠れているとこと)があり、3000人の兵士を配置することができたと言われています。

蔵兵洞

中央に人だけが入ることができる小さな中華門と明記された門があり、その両側に西門と東門とがあってこの二つの門は一般車両が行き来する大きな門になっています。

中央の中華門に入ると小さな窓口があって入場料(20元程度)を払って更に進むことができました。

お祭りの夜店のような出店がいくつもあります。

飴細工の実演販売

やがて石段が現れ、明時代の兵士が出迎えてくれます。

石段を登っていくと城門の上に出ます、丁度万里の長城をようなレンガの壁が連なっており、レンガのすき間から城門下の敵兵に攻撃するようになっていました。

城壁の上から遠く高層マンションを臨む

 

明時代の砲台などの武器がところどころに置かれていて、説明用のパネルがぶら下がっていますが、中には簡単に日本で書かれたパネルもあります。

明代の大砲

かつては城門の上から城壁の外側を臨めばはるかに続く田園風景であり、内側を臨めば家並がひしめき合う都市の姿であったでしょうが、今はどちら側を見ても高層マンションが建ち並ぶ都市になっています。

城壁の上から見える城内

南京陥落の写真展示

明代の武器の展示パネルに比べるとかなり小さいパネルが鉄の柵に針金で縛られてぶら下がっているの気が付きました。

ひとつは、この中華西門が日本軍によって攻略された時の写真で、日中戦争に関わる文献では必ずと言ってほど登場する写真です。

鉄柵に掲げられた写真パネル

 

写真の下部には「中華西門の意気揚々とした日本軍(1937年)と題された以下のような中国語の説明文が添えられています。

「日本軍の飛行機が爆撃をしてきたとき、中国軍人は抵抗した。しかし、城壁は明代のものである。三日三晩の激しい砲撃のあと、中華西門の西側100mのあたりで城壁が崩れ落ち、そこから日本兵が雪崩を打って突入した」

パネルの拡大(中華西門の文字が見えます。上の現在の姿と比較してみてください)

 

中山門での入城式

今一つの写真パネルも日本では有名な南京城内への日本軍の入場式の様子です。この入城式は中華門ではなく中山門で行われました。この写真には『蹄鉄を踏み鳴らしての南京「入城式」1937年)』との題で次のような中国語の説明文がありました。

『日本軍にとって南京「入城式」は重大事件であった。1937年12月17日、日本軍の当方軍司令官松井石根は湯山を経由して自動車で中山門に到着したが、馬に乗り換えて南京城に入り、いわゆる「入城式」を執り行なった。松井石根は高らかに宣言した。「中国の首都南京を攻略したことは最大の成果である」と。

説明文で入城式を敢て「入城式」とカッコつきで表現しているのは、日本軍がわざわざ馬に乗り換えて日本国内向けのアピール効果を狙って演出していることへの皮肉が込められているように思えます。

親中国派の司令官松井石根

中支那方面軍司令官であった松井石根は親中国派で知られていました。陸軍大学校を首席で卒業したあとフランスに派遣され、蒋介石とも交友のあった松井は帰国したあとの次の勤務先として清国を希望して受け入れられいます。日中関係の良好な関係が日本、更にはアジア全体の安寧に繋がると考えたからでした。

南京に向かう途中での各部隊による略奪や婦女暴行の報告を受けた松井は南京攻略を前にして、略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む「南京城攻略要領」を兵士に示します。それにもかかわらず、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたといわれています。しかし一方で、南京城に入って行進している沿道には無抵抗のままの状態で殺された中国人の死体が累々と積み上げられており、その中を行進しながら松井は馬上で涙を流したとも伝えられています。松井は各師団の参謀長らを集めて強い調子で訓示を与えました。「軍紀を緊粛すること」「中国人を馬鹿にしないこと」「中国には軟らかく接し英米への依存心をなくさせること」。しかし、松井は極東軍事裁判で南京虐殺の責任を問われて絞首刑に処せられました。

城壁を見上げて

 

写真パネルから見えてくること

日本軍の南京攻略に関する写真はいずれも日本側で撮影したものを展示したもの過ぎませんでした。また、その説明も事実を端的に述べているだけで、日本軍の行為そのものを非難するような響きはありません。しかも城壁の中になだれ込んだ後どのような悲惨な行為が繰り広げられたかについては一切触れていませんでした。

これは何を意味するのでしょうか。考えられるのは、この南京城は有名な歴史的観光名所であるということです。中国の人にとっても明時代の貴重な遺跡でとして人気が高い観光地なのです。また、日本語の説明パネルがあるくらいですから、日本人が多く訪れる人気スポットでもあります。そこに日本のかつての残虐行為を非難するように展示することは何も有益なことをもたらさない考えているのでしょう。そういう役割はひとえに南京大虐殺記念館に担わせているのだと思います。

もう一つの理由は、日本軍の砲火で廃墟と化したこの中国の歴史的文化遺産である城壁を日中の協力で修復をしてきた経緯があります。1995年に日中友好の士が「中日協力による南京城壁保存修復事業」を発起し、城壁の修復を通して日中の関係改善を進めてきた経緯があります。そのような場所に日本を非難する展示はできないものと思われます。

南京城壁はあくまでも明代の歴史的かつ見ごたえのある建造物としての国内そして世界にアピールできる文化遺産であって、日本による関与は長い歴史の中で一瞬の出来事に過ぎない、そう扱われているように思えてなりません。

→関連記事:南京大虐殺記念館の訪問記

 

 

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