台湾の映画

クーリンチエ少年殺人事件のその後

投稿日:9月 9, 2017 更新日:

 

1961年の6月15日台北市クーリンチエ街で起こった16歳の少年Mによる15歳の少女Lの殺人事件が報道されますと、台湾中に衝撃が走りました。

 

 

当時の新聞報道

母親の自殺未遂

死んだ少女Lの父親は山東省の出身で、国共内戦での有名な徐蚌会戦の時は通信官でした。1948年の冬に所属部隊は敗退したのですが、父親は通信機密を守り抜くために戦死しています。遺族となったの母親は2歳の娘Lを連れて国民党軍に従って台湾に渡ります。

そして、13年間ひとりで子育てをしました。毎夜母親は,基隆路のバス停前で,Lが学校からバスで帰ってくるのを待っていて、Lも母親の姿を見ると嬉しそうに下車し、そして親子は一緒に家まで歩くのでした。

事件の起こった6月15日の夜も,いつもようにバス停で娘の帰りを待って母親は、なかなか娘がバスから降りてこないのを訝しげに思いながら12時過ぎまで待っていました。そして,最終のバスが通り過ぎた後も不吉な予感が走るのを抑えて娘が帰ってくるのをその場で立って待っていました。

この時、近所の人がバス停まで駆けて来て彼女に「警察があなたの家に来て娘さんが殺された。遺体は台湾大学病院に安置されているらしいので、早く行きなさい」と伝えました。母親はどん底につき落とされた気持ちになり,病院に行って娘の最期の姿を見ようとはせずにそのまま家に戻りました。

病院では母親の妹がずっと姉が来るのを待っていましたが、朝の2時になっても姉が来ないので彼女は三輪車で基隆路の姉の家に向かいました。そして呑金自殺(金の装身具を飲み込んで自殺すること)を図っている姉を発見し、すぐに三輪車に姐を乗せて台湾大学病院の救急施設に運び込みました。

医师はレントゲン写真から胃の中に指輪の影を発見し直ちに救急処置を施した、この応急措置がなければ彼女はこの病院で命を落とすことになったはずでした。(映画では母親はそのまま死亡したことになっており、小四は警察の取調官からそのことを伝えられています)

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警察の取調で判明したこと

警察の調査の結果,凶器のナイフは杭州南路にある,建中3年の生徒S所有のものであることが判明しました。少年Mは留年をする前は彼と同じクラスで,退学のあとはよくSの家にいました。14日の午後,Mは南昌街の喫茶店に話し合いに行ったとき,Sの床下にあったナイフを盗んで持って行きました。

Sはそのことを発見したあとでTに平手打ち食らわせて取り返しましたが、15日の夜8時,Mは再びSが補習で建国中にいて高校入試の準備をしているときを狙って床下からナイフを盗みました。Sが家に帰ってから家人からMが彼の部屋から本を1冊持ち出していったことを聞いたとき不審に思い調べてMにナイフを持ち去られたことを知りましたが、Mがどこに行ったか知る由もなく,仕方がなく夕食を食べて建国中学に戻って勉強をしたとSは証言しています。

(映画では床下ではなく、天井裏から日本女性の自刃用の懐刀が見つかったことになっています。それを小虎が持ち出して返すときに本棚の裏に隠します。それを見ていた小四が当日に本棚から持ち出す設定になっています)

9時になって、Mが建国中学に来てSを探し出し,話があるが自分は既に建国中学を退学になった身なので学校では話がしにくい、10時にアメリカ新聞社前に来るように言いました。また、Mは恋敵のAにも決着をつけるべく同じ時間、同じ場所に呼び出しをかけ、くれぐれもひとりで約束の場所に間違えずに来るように念を押しました。
 現在の建国中学
Aはその約束の場所にひとりで来ましたが結局自転車を捨てて逃げてしまいました。そのあとでSが仲間の数人を連れて約束の場所に近づいたときにその場所に佇むMが見えたので連れて一緒に帰ろうと思いました。しかし、丁度そのとき運悪くLが女子の同級生と一緒に下校して来ましたので、Mがナイフを持ってたあそこにいるので近づかないように言いました。ところが、彼女は全く意に介さず、同級生から離れるとMのところに行き一緒に牯岭街のほうに向かって歩き出した。これが彼女の死への一歩となったのでした。

裁判の経過と判決

Lの遺体は検視の結果、他殺によるものと認められ、全身で七ヶ所もの殺傷がありました。そのうち胸部への一太刀が致命傷となっていました。遺体は検死後に市立の斎場に安置され、7月11日台北地方検察局は被告Mに対し刑法271条の第1项にある殺人罪で起訴しました。

起訴状によると「被告Lは不良少年にして,女友達が自分の意のとおりにしないという理由だけで彼女を七回も刺し続けたことは、性格が極めて残忍であって、悪質である。よって法の名において厳罰を持って処するより他ない」とあります。

7月31日,台北地方裁判所においてMの尋問が行われ、証人としてS等友人たち、取り調べた警察官、Lの母親が証言台に立ちました。被害者Lの母は,Mの重刑を求め、涙ながらに「娘の身体は冷たくなってもう戻らない、なのに被告側は損害賠償額の提示をしようとしない」と訴えました。

彼女は民事訴訟も提訴していたのです。判決は被告側に41万2945元(今のレートで計算すると500万円だが物価差を考慮するとおそよ日本での2000万円程度に相当する)損害賠償を言い渡した。

8月7日,この日は被害者の15歳の誕生日でもありました(事件当時Lは満14歳だったことになります)。裁判長は判決の主文を読み上げました。「被告Mは18歳未満であるので,罰するのではなく教育をすべきものである。刑法の规定により、死刑や無期懲役に処すことはできない。しかし被告は相手が自分の意のままにならないという僅かな理由からナイフで人を刺殺した。しかも七度も刺し続けた。このような行動は凶暴かつ残忍であって社会に与えた影響も大きい,したがって法の定めるところのなかで最も重い量刑を課すものとする(懲役15年)。また被害者の母への損害賠償請求は別途民事部で審理する」。



9月26日下午,台北地方裁判所民事部は被告の父に被害者の母に129,523元を支払う損害賠償を命じ、原告側の請求していた54万元は根拠がないとされました。12月23日,Mは高等裁判所に控訴しましたが高等裁判所は原判決の懲役15年を妥当として控訴を棄却し、更に最高裁に不服申し立てをした結果、最高裁は高等裁判所に差し戻しました。

1962年8月23日,高裁は年齢と更生とを考慮して懲役7年に判決を改めました。検察はこの判決に対して最高裁に不服申し立てをせず、高裁に再審理を要請した。1963年2月22日,高裁は懲役を10年に改め、検察も上告しなかったので懲役10年が確定しました。

浙江省出身の少年の父は山東省出身の少女の母に賠償金を支払うことに対して難色を示していた言われています、そのことが外省人同士の中に存在する一種の差別に根差したものであるとの指摘が当時あったようです。映画のラストシーンで小四の父が賠償金を払ったという説明が流れたのは、そのような経緯と背景があったためだと考えられます.

またラストシーンでは母親が洗濯物を干し、父親が縁側でぼんやりしている情景のなか、ラジオから大学の連合試験(当時の台湾では複数の大学が連合して統一の入試を行っていた)の合格者名簿の発表が放送されており、エンドロールの流れている間中も延々と合格者の名前が読み上げられています。この放送はその1年前に小四と父親が冷たいものを食べながら話をしていた時にも店の中のラジオから流れていました。

この試験は将来の国家の中枢を担う若者たちの登竜門であり、合格者はエリートとして将来を保証されたにも等しい栄誉を勝ち取ったことになります。小四の父親も息子がこの試験に合格して名前が放送されることを願っていたでしょうし、小四もその期待に応えるべく努力したのでしょうが、永遠にその機会は失われました。白色テロを受けて今や完全に人格が変貌し、虚脱化してしまった父親は縁側でこの合格者発表をどのような気持ちで聞いていたのでしょうか。

(参考:管仁健 https://www.thenewslens.com/article/53525

→関連記事:実際の牯嶺街(クーリンチエ)少年殺人事件とはどんな事件だったのか

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