中国で働く人々

中国人社員の面子と思いがけない涙

投稿日:4月 19, 2017 更新日:

李係長のこと

総務の李課長は私が上海工場に赴任した時はまだ係長でした。年齢は30を少し過ぎたころで背が高くて顔も引き締まって精悍な感じがしました。日本語は問題なく話すことができ、日本人には愛想がいいですが同じ中国人には強面で通っていました。

決まった方針を従業員に伝え徹底させるには彼の力が必要であり、総務部門の係長としては適任と思えました。

顔は縦長の角張った感じで目は細く鋭い感じが日本の俳優で言えば高倉健の若い時のような面立ちです。ある時会社の若い女性に会社の中で一番の男前は誰かと聞いたところ意外と彼だったので驚いたことがありました。高倉健は1970年代の中国では絶大な人気があり、あこがれの的だったと聞いています。

そういえばテレビドラマのアクションものや抗日ドラマで日本兵を懲らしめる勇士役で活躍している男優にもよく似ていることに気づきました。

総務部門の責任者でもある私は工場内に発生する様々な問題に関して彼から報告を受け、彼の意見を聞いて方針を決めました。それを彼は忠実に実行をしてくれましたので信頼のでき、また頼りになる部下でした。

普段は厳しい表情をしていますが笑うと人なつこい顔になり、どこか愛嬌があります。また彼は上昇志向が強く、一般の人は余りなりたがらない共産党員にも努力してなったのですが、その苦労話も話してくれたこともあります。自分は親も含めた家族のために出世しなければならない、今の仕事はそのための一つのステップなのだと語っていました。

中国では2,3年で会社を変わりながらステップアップしていくのが当たり前であって、日本のような終身雇用的な考えはもともとありません。

軍事教練のお土産

詳しい仕組みは分かりませんが、1年に1度くらいの頻度で地域の党員に軍事教練があるようで強制ではなくて自発的に参加しているようでした。ある時珍しく休暇届を提出したので理由を聞くとこの軍事教練ということなので、どんなことをするのかと聞いたところ「思いっきり機関銃を撃ってきます」と晴れやかに答えていました。次の日、彼は私にお土産ですと言ってあるものをこっそり手渡しました。それは機関銃の弾の薬きょうで、20個ほどから薬きょうが繋がったものでした。こんなもの持って帰って大丈夫なのかと驚いて尋ねると「大丈夫ですよ」と彼はいたずらっ子のように笑うのでした。

そのお土産は私の部屋に棚に長いこと飾ってありましたが、日本に帰任することになって、日本に持ち帰りかったのですが、さすがに何かの拍子に税関などで見つかると、問題になるだろうと思いやむなく彼に返しました。

彼は春節の休みになると決まって私を自宅に招待をするメールをくれるのですが、いつも厚意に感謝しながらも適当な理由をつけて辞退していました。中国の一般家庭でどのような春節の祝い方をするのかを経験したいとの願望はあったのですが、同居しているという親御さんや奥さん子供さんの家族総出で歓待するのは想像に難くなく、少し気が重たく感じたことと、やはり特定の部下と仕事を離れてあまり親密にするのには避けた方がいいとの判断もあったためです。

李係長の苦悩

中国では昇給昇格の時に自分の要望を直接トップに訴えるのは当然のようにします。ある年に彼も課長にしてほしいと、現地法人のトップ(総経理)に直接訴えたところ、そのトップはこれまでに彼が起こした失敗事例をあげつらい、とても今のままでは課長にはできないと厳しく突き放しました。その剣幕に彼は委縮してしまい黙って引き下がるほかなかったようです。

彼はまじめに仕事していますが、少しおっちょこちょいのところがあり、時々へまをするのでした。それが彼の愛嬌のあるところで人間味も感じるのですが、そのトップには無能の証のように感じているようでした。依頼彼はそのトップの前に出ると委縮して蛇ににらまれたカエルのようになってしまい、うまく報告ができないことがよくあり、それをまたトップがきつく指摘するという悪循環がおきてしましました。トップももともとは意地の悪い人ではなく、たたき上げで上がってきた人で苦労人でもあり、話の分かるどちらかというと融通の利くほうなのですが、どうもこの二人の持って生まれた相性が悪いというほかはありません。どうも理屈では説明のできない力関係が出来上がってしまっているようでした。



彼は私に、会社を辞めたいと訴えました。私はトップに掛け合い、彼の良いところも評価してあげてほしいと話をしましたが、トップは聞く耳を持たず、逆に私が赴任する前の彼の失敗について一つ一つ詳しく説明をする始末でした。私には知らない内容なので弁護することもできず、引き下がるしかありませんでした。

彼には、正直にトップとの交渉の内容を話し、今年1年辛抱すれば私が何とかするから退社は思いとどまるようにいいました。彼は聞き入れて退社を思いとどまり、これまで以上に業務に励みましたが、これまで彼が直接トップへ報告していた事項は全て私からトップに報告するようにしました。つまりときどきする彼の失敗は報告しないようにしたわけです。

次の昇給・昇格の時に私は彼の課長昇格を申請しました。トップは今度も反対しましたが、具体的な反対の理由となる事例を挙げることはできませんでした。私は、前回の時に成果を上げれば課長にするから頑張るように言って、彼はそれに応えて成果を上げました。それを課長にしなかったら私はうそを言ったことになるのでそれでは私が困りますと強い調子で迫ったところ、いつにない私の態度に驚いたよう様子で、「分かった。任せる。」と言ってくれました。

私は彼を別室に呼んで、今度課長に昇格するので心を新たにして頑張ってほしいと告げました。私は彼がそれを聞いて嬉しそうに頑張りますと言うのを期待していたのですが、彼は予期せぬ反応を示しました。彼は体を震わせ、嗚咽し始めたのです。はじめは歯を食いしばって小刻みに震えていましたが、やがてその振幅は大きくなっていき、うめきにも似た声と同時に大粒の涙がこぼれました。私はうろたえました。映画やテレビでは男が泣くシーンは数限りなく見てきたはずですが、実際に目の前の男が泣きだすという経験をしたことがなくどう対応していいのか分からず戸惑うばかりです。

彼は、昇格したことが嬉しくて泣いているのではないことは確かでした。自分よりも年若い女性で課長になった者がこれまでに3人もいましたし、家族からもいつ課長になるのかという目で見られて、課長に昇進できなかったこの1年間は彼にとってどれほど面子を保てない苦悩の1年間だったのか、他人の私には測り知ることができません。これまで辛うじて抑えて来た感情が一気に噴き出してきて、彼自身も押しとどめることができなかったのでしょう。私は黙って彼の肩の動きを見ていることしかできず、その動きが小さくなるのを待って部屋を出ました。

 

老杜のこと

老(lao)は畏怖と尊敬の気持ちを表す尊称であって姓の前に着ける場合と後ろにつける場合とがあります。年長者に限らず周りから一目置かれる人に与えられるものです。その老をつけられた人が工場に一人いました。それが杜(du)さんでした。老杜は35歳で現場の係長で、浅黒い顔に鋭い目つきと、ドスの利いた声で周りからは恐れられていましたが、自分の部下には面倒見のいい親分肌の人でした。その妥協しないかたくなな態度はしばしば他の部門ともたびたび衝突していました。この老杜の部門を私が直接見ることになった時、正直言って厄介なものに関わってしまったなと思いました。

案の定、彼が他の部門との業務の引き渡しの件でその部門長にねじ込んで、その部門長が私のところに何とかしてしてほしいと泣きついてきました。

私は仕方なく彼を呼んで両方の意見を聞きましたが、どちらも引かず、老杜は腕を組んで白目をむいて相手をにらみつけておりその風貌たるや座頭市の勝新太郎を彷彿させるものでした。話を聞いてみると、双方の言い分ももっともなところがあり、問題の本質は結局のとこは組織運営のシステム上の欠陥であることが分かりました。

すぐに解決できるレベルの話でもないので、知恵のない私は双方の折衷案でお茶を濁そうとしました。日本語を全く解さない老杜は私の提案を通訳を通じて黙って聞いていましたが、聞き終わると「分かった」とばかりに頷いて職場に戻っていきました。彼の反駁を予想していた私は事の成り行きにほっとするより拍子が抜ける思いがしました。

そんなことが2,3度あったので、李課長にどう理解したらよいのか聞いてみると、老杜は理屈の分からない人間ではないが、部下の不満を背に相手に要求をしなければならない立場にあり、簡単に引き下がったのでは部下に説明ができず、彼の面子が立たないのである。ところが彼の上司でもある日本人幹部が自分の意見を十分聞きてくれて、そのうえで出された指示には、日本人の経営する会社に雇われている以上従わなくてならない。部下にそう説明して従わせることができるので彼の面子は保たれるというのでした。

その後彼は、自分の部内で行う旅行や宴会には必ず私を招待してくれるようになりました。

私も工場内を視察するときは必ず彼の部署に立ち寄り、彼にヘタな中国語で語り掛けて話し相手になってもらっていました。

突然の日本語

1年ほどたったある日、報告書をもって私の席まで来た彼は、私に「おはようございます。これを読んでください」といきなり日本語で語り掛けました。私は驚いて彼の顔を見上げましたが、彼はどうだと言わんばかりに私を見ていました。

それは辛うじて日本語と分かる程度のものでしたが、私が大げさに彼の日本語を「太棒了(素晴らしい)」と褒めると彼は少年のようにはにかみ「少し、日本語勉強している」と再び片言の日本語で話すではありませんか。

やがて彼の日本語は徐々に上達し、簡単な仕事の話も日本語でできるようになりました。わたしは嬉しくもありましたが、多少焦りの気持ちも出てきました。私の中国語の学習は既に3年以上も続いており、半年しか学習していない彼の日本語の上達振りからすれば早晩私の中国語よりうまくなるのは目に見えています。近いうちに彼とは通訳抜きで日本語で仕事の打ち合わせをすることになりそうだと観念するしかありませんでした。しかし、実際にはそのようなことにはなりませんでした。その前に私に日本帰任の辞令が出たからです。

最期の挨拶

それはあまりに唐突で、理不尽なものでしたが、会社の指示には従わざるを得ません。3週間ほどの猶予ですべてを整理しなければならず、何かと気ぜわしく時間が過ぎました。何とか整理がつき、各部署に最後の挨拶に行きました。顔と名前が一致する人にはみんな声をかけ、お世話になったお礼を中国語で言いました。中国語を早く覚えるためにできるだけ多くの人に声をかけて名前を聞いて覚える努力をしていたために、その人数も少なくなく、挨拶周りで半日はかかりました。

老杜のいる工場では、まずは最初に彼の事務所に向かいましたが、あいにく彼は仕事で席をはずしていました。やむを得ずその工場を挨拶しながら一回りして最後に再び彼の事務所に寄ったとき、彼はまだ戻っていませんでした。残念に思いながらも工場を出ようとした時、丁度2階から降りてくる彼が見えました。私は戻って、彼も階段をおりて私の方に歩いてきました。私が彼に用意していた言葉をかけようとしたその時、彼は突然大粒の涙を流し、泣きじゃくりながら大きな声で話しかけてきました。それは何かを訴えているようでもあり、何かを嘆いているようでもありました。その言葉は日本語ではなく私には聞き取れない中国語でした。私はただ茫然と彼を見つめ、どうしていいか途方に暮れていました。私は辛うじて彼の肩に手を置き頷くことしかできませんでした。

彼が何を言っていたのか、その場を去った後も気になって仕方がありませんでしたが、後の祭りです。冷静に戻った彼にあの時は何て言っていたのかと聞くわけにもいきません。この時ほど、自分の中国語の未熟さを呪ったことはありませんでした。

生まれてこの方、成人した男の涙を目のあたりにしたのはこの2回だけです。これから先日本にいる限りはもうそのような経験をすることはないでしょう。

私が日本に戻って1カ月ほどして、李課長から会社を辞めて次の職を探すというメールが届きました。その半年後に老杜も会社を去りました。私は日本に帰任した当初はまた近いうちに何とかして用事を作って上海工場に行きたいと思っていましたが、二人のいない上海工場にそれほど行きたいとは思わなくなっていました。

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