2017年4月1日に新宿にある武蔵野館という映画館で楊德昌監督の台湾映画「牯嶺街(クーリンチエ)少年殺人事件」を観てきました。上映時間4時間という長丁場の映画であり、途中に休憩がないのが正直つらかったが、退屈することはありませんでした。エンドクレジットの途中で席を立つのが当たり前のようになった昨今、ライトが点くまで席を立つ人が一人もいないことに感動してしまいました楊監督が事件の舞台となった同じ建国中学の夜間部に通っていたときにその1年先輩の少年少女がこの事件が起こしたものです。
台湾中がこの事件に注目して過剰な報道が行なわれたなかで、楊少年にはこの事件が強く心に刻み込まれたことでしょう。中学時代のことを思い出すたびに必ずこの事件のことが頭を掠(かす)めてのだと思います。楊監督が多感な少年時代をすごした世相や人間関係の中で、一番強烈な印象を残した事件だったと言えますが、このことが彼の人格形成にどのような影響を及ぼしたのか読み解こうしてもできませんでした。この4時間にも及ぶ映画のそれぞれのシーンの相関を考えながら見ていても今一つ関係が分かりません。いやむしろ長いために、焦点が絞り切れずに見終わってしまったというのが本当のところでしょう。一つ一つのシーンは観ているものを惹きつけ、共感を呼ぶものも多いので、二度目にあれこれ考えずにひとつひとつのシーンを楽しむというのがこの映画の観方のような気がします。
それでは、モチーフとなった牯嶺街での殺人事件とはどんな事件だったのでしょうか。この1961年に起きた事件は当時も犯人と被害者が未成年であるとのことでセンセーショナルに報道で取り上げられ、少年の少女にあてた恋文が新聞で公開されるまでに至っています。
実際の牯嶺街少年殺人事件の概要
1961年6月15日夜10時,台北市の南海路にある警察に通行人からの通報があり警官が牯嶺街に駆けつけると、一人のボーイスカウト風の制服を着た女子学生が殺されているのを発見しました。現場はアメリカの新聞社が近くにあったので、最近政治的事件が多いこともあって、警察は緊張して素早く警官を現場に派遣したのでした。警官はそこで女学生の遺体を抱いている一人の少年を発見しました。警官が車を呼んで台湾大学病院に送りましたが、診断した医師は「既に絶命している」と告げました。
少年は声を立てずに泣いていたので警官は彼女との関係を尋ねたところ「彼女のいとこである。婚約者といってもいい」と答えました。警官は不審に思い彼に手錠をかけて警察署に連行しました。
スポンサーリンク
取り調べの結果、死亡したのは建国中学の二年甲組の女子学生L(15才、山東人)であり、少年は同じく丙組を退学になったM(16才、浙江人)であることが分かりました。
少年Mの供述:
去年の3月に街中のバスで隣の組のLに偶然会ったのが始まりでした。5月1日に建中で1時間目が終わって教室を出て、彼女と廊下ですれ違った時に1枚の紙を渡されました。その紙には「あなたが好き」と書いてありました。それから私たちはデートをするようになりました。もともと彼女には別の中学に通う3年生の男友達Cがいましたが、私と恋仲になったあとは「心変わりした者は地獄に落ちる」といって、彼とは別れました。
去年の12月のある夜、小学校の大樹の下でデートした時に深い関係になりました。その時だけは拒みませんでしたが、その後のデートで彼女を求めても妊娠するのが怖いといって拒否されましたので接吻だけをするようになりました。
彼女がCと分かれたあと、乙組のJが彼女に迫るようになりました。彼は「海盗グループ」という不良グループに属していましたので、彼に対抗するために、彼女には「小玉」、自分には「鐘璧」という名前をつけました。そして、7月の終業式で二人とも留年したのを期に「璧玉グループ」を組織して「海盗グループ」に対抗しました。
今年の4月に、カバンの中にナイフがあるのを見つかり、建国中学を退学になりました。それでも彼女とデートは続いていましたが、以前よりは接触する機会が減りました。彼女は同級生のAと一緒にいることが多くなりましたので,昨夜Aを呼び出し、彼女に近づかないように警告しました。しかし、彼は聞かず、今夜南海路のアメリカ新闻社前で決着をつけることになりました。仲間のKの話ではAは日本刀を持ってくるだろうとのことなので、仲間のSの家からボーイスカウト用の刀を持ち出してアメリカ新聞社前向かいました。
しかし、Aはグループの援助がないためか、いざとなって怖気づいたのか、自転車を置いたまま逃げてしまいました。この時ちょうど彼女が下校してきたので、一緒に牯嶺街まで歩きました。彼女に言いました「Aと一緒にいるのは気に入らない」と。すると彼女は「おおきなお世話よ」と答えました。「それじゃお前を殺す」というと「我慢できないの」と問うので「我慢できない」と答えました。続けて4回彼女に同じ要求をしましたが承知しませんでした。私は一気に刀を抜いて彼女の胸を刺しました。続けて額に2回切り付けました。彼女が倒れたので背中を2回刺しました。肩にも2回切り付け、彼女の制服がすべて鮮血で真っ赤に染まるのを見てようやく手を止めました。(出典:https://www.thenewslens.com/article/53525)
映画では少女Lの母親が娘の死を聞いて直ぐに自殺したことになっています。実際はどうだったのでしょうか。
→関連記事:クーリンチエ少年殺人事件のその後
多くのエピソードが意味するものは何か
映画「牯嶺街(クーリンチエ)少年殺人事件」は4時館にも及ぶシーンの中で様々なエピソードを織り交ぜています。例えば、
映画撮影スタジオに忍び込んで盗み見したこと
飲食店でバンドを組んでアメリカンポップスを演奏
バスケットボールに興じる少年たち
学校主催でプロのバンドを招待して演奏会
徴兵制のある台湾で身近に存在する軍事教練
国民党による反体制分子の粛清(白色テロ)の恐怖
外省人の間での身分と貧富の格差
大人社会の格差の少年たちへの反映
日本統治時代の名残と思い
近所の商店のおじさんとの関わり
悪党グループ間の殺し合いに至る血で血を洗う抗争
少年不良グループ間の些細ないさかい
兄弟姉妹間の反発とやさしさ大陸から渡ってきた夫婦のそれぞれの思い
父親と息子との絆
これらの少年殺人事件とは直接結びつかないと思える多くのエピソードが縦横に織り込まれ話を複雑にしているかのように見えます。観る者はこれらが結末に予想される少年による少女刺殺事件の伏線であると考え、相互間の関連を読み解こうとします。しかし一向に収斂しようとしないストーリの流れに戸惑っているうちに最後の事件に至るのです。
映画が終わったあともラストの少年殺人事件とその他のエピソードがどうしても結びつかないし、あのシーンがラストに至る伏線になっていたのかと合点することもできない。自分の理解力が劣っているのかとさえも思えてしまいます。
この映画は光と陰を巧みに表現していると言われます。光の部分は当時親密だったアメリカ影響を強く受けた部分ではないでしょうか、60年代のアメリカンポップスにとっぷりと漬かっている少年たちには明るい未来への期待が感じられます。
一方の陰の部分は、台湾の歴史が背負った負の部分です。国民党政権による白色テロは少年たちの親の世代に暗く冷たい恐怖心を植え付けます。少年たちは学園生活を謳歌しながらも、親たちのひそひそ話に身をすくめ、先行きに黒い闇が待っているかのような不安を感じます。
前者の光の部分は日本の同世代と相通じる部分でもあり共感できるものですが、後者の陰の部分は当時の台湾の人でなければ分からない感覚ではないかと思います。楊監督はこれら光と陰の事柄を小間切れのようにちりばめることで当時の同世代の心象を描いたのではないでしょうか。そのためには4時間という時間が必要だったのだと思えます。
→関連記事:映画「牯嶺街(クーリンチエ)少年殺人事件」にみる台湾の外省人たちと白色テロ
建国中学は台湾随一の名門高校
台北市立建国高級中学は日本の高等学校に相当する学校で学生3,000人を擁する伝統的に男子校です。楊德昌監督もこの高級中学を受験しましたが失敗したので、夜間部に通って努力した結果試験に受かって昼間部に転入したとのことです。その翌年にこの事件が起きています。
この学校は、1898年の日本統治時代に日本人用の旧制中学である、「台湾一中」として創設されました。ノーベル賞受賞者や中華民国総統(馬英九)など多くの署名人を輩出した最難関のエリート男子校として知られています。日本の政治家石橋政嗣やゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実の出身校でもあります。
現在の建国中学
この学校は創立から日本の統治が敗戦で終わる50年間は日本人が校長を務め、多くの学生が日本人であった訳ですが、この日本統治時代のことが学校の中で現在どのように扱われているのか気になるところです。戦後台湾を統治した国民党が、二二八事件で日本式教育を受けた台湾人エリートを数万人も虐殺した歴史を考えると、この国民的高校が実は日本人が作った学校である事実が伏せられているのではないだろうかと気になったわけです。実際に建国高級中学のホームページを見てみますと、校史のコーナーでは歴代の日本人校長の顔写真とその功績が詳細に記述されており、国民党統治後の校長と同列で扱われていました。なぜかほっとした気分になりました。(建国中学HP:http://ckhis.ck.tp.edu.tw/xs-rwp.php)
→関連記事:映画「牯嶺街(クーリンチエ)少年殺人事件」にみる台湾の自由空間-プレスリーの歌